他流試合で「我流」を通す困難

5限、考古学の洋書講読の授業で、院生・学部生たちと洋書を読む。この授業では、これが本年度初のテキスト講読。
今までは気楽な院生として、他の同僚(それも、西洋史の院生)の訳文に好き放題に突っ込みを入れるだけで良かったのだが、今年はそれの監督役を命じられている(先生は隅っこの方でニヤッと笑いながら私の悪戦苦闘ぶりをじっくり観察しておられる)。で、恥をかかないように必死で予習をして臨んだのだが、自分の未熟さと稚拙さを改めて反省させられる。
何より、日本考古学の人たちと一緒に読むから、好い加減では済まされない、とくそ真面目に考えてしまう自分の小心者ぶりに、苦笑させられる。それにしても、やはり、今読んでいるArchaeology of the Greek Past面白いテキストだ(5月7日状でも紹介しているから、今日は「はまぞう」では紹介しません)。かなり丁寧に読んだから進行速度はゆっくりだったが、当分スピードアップはしないようにするか。何より、自分がしんどい(爆)。
それはさておき、
「如何にして『イメージ』が形作られるか」
という事を追求する今のテキストは、素直に面白い。アルコックの本、どれか訳が出ても良いような気はするんだけどな。M大のS藤先生とか、トライされないだろうか?出たら買うのだが。・・・専門としている地域的フィールドは私の領域じゃないから、愚僧はやりませんけど・・・


今日、心に響いた一言は、今日の訳を担当した学部生の、
「何だか日本語の授業をやっているみたい」
という一言。まさしく名言だと思った。その通りでしょうね。訳文を左右するのは、日本語が巧いか下手かだと思います。かくして、日本語の拙劣な私は、毎度講読の授業で大恥をかいているんです、はい。