2024春旅の記録⑤仏独国境~サイゴン~日本

4月21日更新

3月4日、遂にストラスブール出発です。ストラスブール欧州議会の開催時期に入ると宿が取りにくくなると事前に教えていただいていたこともあり、会期始まりのこの日、朝8時のバスで出発しました。バスは河向こうのケール始発、バス車内は小学校高学年くらいの年頃の子供たちで一杯でした。どうも合宿か遠足の御一行様のようですが、貸し切りではないんだなぁ、と興味深い一幕でした。

フランスに行ったのにTGVも使わず(この旅程では結局、一度もTGVに乗りませんでした)バスにした理由は、せっかく仏独国境にいる状況を活かして、ドイツ側にある古都トリーアを訪問するためです。世界史に詳しい人ならおわかりいただけると思いますが、ここはローマ帝国末期、ディオクレティアヌス帝に始まる「四分統治」(テトラルキア)期に副帝(のち正帝)コンスタンティウス1世―あのコンスタンティヌス大帝の父親―が根拠地を置いたところです。今回の旅程は、徹頭徹尾、自分の研究分野と関連したところばかり回る羽目になってしまいました。趣味か業務か、その2つが完全に結合した旅路です。ここまで両者が一致するのは珍しい。

トリーア到着は11時20分、定刻通りでした。駅のコインロッカーに荷物を預け(€3.5/24時間)、駅前から真っ直ぐに伸びる大路を歩くと、十分ほどでポルタ・ニグラに着きました。2000年のユーラシア横断の最終盤に、列車の乗り継ぎで少し時間があったときにこの門も見たのですが、12月の夕刻のヨーロッパはあまりに暗く、その名の通り黒い門は夜景に溶け込んでいました。

トリーアのツーリスト・インフォメーションは、このポルタ・ニグラに隣接しています。この日は月曜日だったために、博物館やコンスタンティヌス帝のバシリカは閉館日でした。ガッカリしましたが、これが幸いするのだから解りません。つまり、博物館に割く時間を開館中のローマ遺跡に割り当てることができたのです。そのおかげで、めぼしい見所はだいたい訪問できたと思います。今回訪問したのは①ポルタ・ニグラ、②大聖堂、③皇帝浴場、④円形闘技場です。どれも保存状態がかなり良いのですが、ポルタ・ニグラは中世~近代に教会として、皇帝浴場は城門として使用されていたとのことで、長期にわたって維持のための補修が為されていたようです。裏を返せば、修理さえ怠らなければローマ時代の建造物は1500年を超える使用に耐えたと云うことです。ちなみにトリーアはマルクスの出身地で、マルクス博物館だけは月曜日にも開いているとのことですが、残念ながら見学の時間はありませんでした。

左から順番に①ポルタ・ニグラ、②大聖堂、③コンスタンティヌス帝宮殿、④皇帝浴場、⑤円形闘技場

訪問の目的は充分に果たしたところで、円形闘技場では閉門時間を過ぎ(入り口が閉まって無人状態になったところを見たときには冷や汗をかきました)、24時間見学OKのバルバラ浴場を見たところで日没となりました。トリーア発のバスは午前1時発予定、夕食を食べてから居酒屋で時間を潰すか、と開いたタブレット

「バス、すごく遅れます。代替便への変更推奨」

という恐ろしい通知が来ていました。見てみると、私のバスは始発が朝7時頃のポーランドで、そこからドイツを横断しながらトリーアに来るようで、・・・そりゃ遅れるでしょう。しかしながら、このトリーアからパリへの代わりの手段などないのです。かくして、腹をくくってバスの到着を待ちました。幸い、ポルタ・ニグラから徒歩五分ほどのところに午前3時まで開店の(実際には、もっと遅くまで開いていたようですが)居酒屋があったので助かりました。結局バスがトリーア駅に着いたのは、なんと午前4時、ここでの乗客は、私以外には女性がひとりだけでした。そして、出発がこんなに遅れたら、到着も遅れます。パリのベルシー・バスターミナルへの到着は、当初予定の7時45分から遅れて10時過ぎでした。

パリの東を走る路面電車の路線にほど近い宿に荷物を預け、先ず向かったのは凱旋門でした。巨大な凱旋門は、周辺より高いところにあって、そこから放射状に道路が延びています。門の足元には19世紀以降のフランスの関与した戦争での戦死者を追悼するプレートが埋められています。一番最初に私の目にとまったのは、第1次大戦後のアルザス・ロレーヌ復帰を祝うものでした。この凱旋門からセーヌ河方面を見下ろすと、そこにはアンヴァリッドが見えます。なるほど、ナポレオンの戦功記念と墓所が向き合うような都市計画のもとにパリは整備されたのであると得心しました。この両地点を結ぶ大通りが、かのシャンゼリゼというわけです。

で、「オーシャンゼリゼ」と歌いながら大通りを下っていったわけですが、だんだんと余裕がなくなっていきました。どの店を覗いても、公衆便所がないのです。グラン・パレからセーヌ河沿いにコンコルド広場・チュイルリー公園と歩いて行って、地下鉄に乗って、・・・けっきょくトイレに入れたのは、シテ島ノートルダム・ド・パリの聖堂前公園でした。このノートルダムは、2019年に屋根が焼け落ちてしまい、現在は足場をがっちり組んでの再建工事中です。今年の12月に完成見込みとのことで、どうも夏のオリンピックには間に合わないようです。まぁ、私がオリンピックを観戦することは、たとえ中継であっても、金輪際ありませんが。それにしても今回は、パリだけ天気に恵まれず。といいますか、パリの天気の変化が激しすぎ。シャンゼリゼを歩いていたときは良かったのですが、シテ島でも未だ大丈夫でしたが、最後にバスティーユ広場をチラリと見たときには雨に祟られました。

左から①宿の周辺②凱旋門③再建途上のノートルダム・ド・パリバスティーユ広場

翌朝、遂にパリを離れる日です。朝はゆっくりしすぎたのか、ヴェトナム航空のカウンターには長蛇の列ができていました。2時間半前には着いたんだがなぁ(汗)。チェックインの手際が異常に悪く、CDGを堪能する間もなくファイナルコールで呼び出しを受けました・・・

さて、東へ向かう機内では、どういうわけかあまり眠気を覚えず。結局、睡眠時間1時間ほどでサイゴンのタンソンニャット空港に着きました。入国カウンターをくぐったのは午前8時過ぎ、・・・というところでハタと困りました。サイゴンには何度か来ておりますが、思えばここに来るときには必ず、T倉君夫妻という最高の道案内人が連れ回してくれるので、私はガイドブックもろくに開いたことが無いのです。独りで回った分、首都のハノイの方が土地勘があるくらいです。ましてや今回はガイドブックもなし。さてどうしようかな・・・という不安は、幸い、杞憂に終わりました。

「まずはファングーラオ」

と市内行きのバス(5000ドン)でファングーラオに出ると、そこにはツーリストインフォメーションがあって、懇切丁寧な説明と地図をくれたのです。おかげで、ベンタイン市場に中央郵便局、歴史博物館としっかり見て回ることができました。郵便局目の前のサイゴン大教会は工事中で立ち入りできませんでしたが。あとはファングーラオ周辺の旅人街にあるバーのテラス席で、道行く人を見ながら、最近定年退職したというオーストラリア人と雑談にふけりながら、ビールを飲んで日没を待ちます。19時頃にはそこを発って、タンソンニャットに戻りました。こういうときに、市街地から至近のこの空港は本当に有り難い。そしてラウンジで時間を潰し、さて待合室へ・・・というところで、非常勤先のひとつ・R大学のK先生にお会いしてお互い唖然。旅は道連れといいますが、世界の狭さを感じながら、飛行機で日本へと戻ったのでした。

①まずはフォー②市場③中央郵便局外観④郵便局内⑤郵便局周辺の書籍街にて⑥歴史博物館