2024年春旅の記録④~ストラスブールでの小島剛一氏との再会~

4月1日更新

アヴィニョンからのバスは、到着時点で15分遅れでした。乗車すると満席だったのですが、始発はどうやらマルセイユだったようです。主にマルセイユからリヨンに客を運ぶ路線のようで、深夜1時半頃にリヨンに着くと多くの客が下車し、3月2日の朝8時過ぎ、ストラスブールに到着する頃にはガラガラになっていました。

ストラスブールは、そびえたつ朱い砂岩作りの大聖堂を中心とする、旧市街が大変に美しい街です。とくに、木組みの家並みが美しい「プティト・フランス」は、ガイドブックでもウェブサイトでも必ず紹介されるところです。

また、20世紀に歴史学の一大潮流となった「アナール学派」は、この街のストラスブール大学から始まりました。同じく歴史学徒として見逃せないのは、フランスとドイツの間で長く争奪の対象となってきたところであることです。私の指導教員である渡邊伸先生は、この地域が神聖ローマ帝国領内であった頃の宗教改革を主題とした著作を出版されています。それから第2次大戦後まで、その帰属を追うだけでも息が切れてしまうほどです。こうした状況を踏まえてのことでしょう、現在この街はEUの核である「欧州評議会」が置かれ、「欧州議会」が開催される

EUの首都」

としての位置づけを持っています。

大聖堂(左)とプティト・フランス

前の記事でも触れましたが、「フランスに行くときには、絶対にこの街に行く!」と決めていました。その最大の理由は、『トルコのもう一つの顔』の著者として名高い、小島剛一氏とお会いするためです。実は、氏とは2020年3月にストラスブールでお会いするはずでした。それが出発直前の渡航キャンセルのために果たせず、再会は昨夏8月に遍路道を同道した時まで延びてしまいました。それだけに、遍路道を歩きながら

「次の春は、フランスに、そしてストラスブールに!」

と心に誓ったのです。

小島さんと宿で合流したのは、到着した3月2日の15時を15分ほど過ぎてからのこと。日本で会う機会は幾度かありましたが、遂にストラスブールで・・・握手を交わしたときには、思わず感慨に浸ってしまいました。感慨に浸りながら、大聖堂まで歩きました。正面入り口の彫刻を見上げた後、市内を一緒に散策しました。河沿いの道を歩いた後、路面電車の線路沿いに歩いてストラスブール大学の正面に出ます。学舎を見上げると、壁面にストラスブール大学で教えた学者たちに在籍した有名人たちの名前が刻まれています。大学の植物園を散歩した後、小島さんお勧めのアルザス料理を出すお店へ。ちょうどHappy Hourということで、ビールも料理も割引価格になっていました。勧めていただいた料理ーシュークルート(Choucroute)というのだそうです―は、実に美味でした。

シュークルートと、プティト・フランス夜景

次の日は、大学の前で集合し、ライン河の「両岸公園」を経由して、ライン河対岸のケールまで歩きました。普通の旅行者は路面電車を使うそうですが、我々二人は徒歩です。途中、大学のすぐ近くのロシア総領事館を紹介されました。・・・といって日曜なので、中には入れません(用もありません)。建物前の緑地に、つい最近獄死した、反プーチン派の政治家ナヴァリヌイ氏の写真と献花がありました。緑地帯はストラスブール市の公有地なので、こうした行為にロシア領事館は抗議ができないわけです。

さらに歩いて両岸公園に着くと、ライン河に橋が3本4本架かっていました。ここでみるライン河は、さんざん「大河」として学校で叩き込まれた印象からはほど遠い、泳いで渡れそうな細い河です。そこに架かる橋の一本、歩行者専用の橋を歩いて河を渡ります。この橋へ向かう歩道から橋に向かって表示が色々かかっているのですが、フランス側からみるとドイツ語が表示され、反対側すなわちドイツ側から歩くとフランス語の説明書きを読むという構成になっています。

現在、この橋を含め、ライン河をわたる際の検問はありません。この状態が当たり前になったのは、EU統合のおかげです。しかしそれ以前、すなわち小島さんが留学生としてストラスブールに初めて来た50年以上前には検問が存在していたとのことですが、その段階でも行き来は盛んだったため、検問で顔を覚えられてしまうと、その後は顔パスになってしまったとのことです。第2SARS(SARS-Covid-2)の2020年には国境の検問が復活したといいますから、その衝撃は相当なものであったのでしょう。

そんなことを考えつつ、橋をのんびり歩いて国境を越えてドイツ側のケールKehlに着くと、いきなり道路標識がドイツ語になります。パスポートチェックという儀式を経ていない身では心構えが全くできておらず、虚を突かれてしまいました。今回は歩いてきたので使わなかった路面電車は、最初の路線は終点がケールで、ユーロ導入前にはフランス・フランで運賃を支払うことができたということです。何度か国境を越えてきた身ではありますが、実に心揺さぶられる体験でした。

ライン河と橋、そしてドイツ側国境のケール

ちょうどこのあたりでお昼時になり、両岸公園のドイツ側で、ライン河を眺めながらの昼食です。小島さんの好意で、用意してくださったものをいただきました。市場で買ったばかりの新鮮な野菜にスウェーデンの「パン」*1、そしてチーズが色とりどり、という組み合わせでした。とても美味しかったのですが、困ったことが1つ。美味しいチーズを食べるとワインがどうしても飲みたくなるのです。これを押さえつけなければいけないことだけは、困りました。飲兵衛であることの、まことに困った副産物です*2

酒を飲まなかったおかげではないでしょうが、散歩する人たちの声がよく聞こえました。聞くと話に聞こえてくる会話が、フランス語やドイツ語だけではなく、スラブ系の言葉を話す人もいました。このようなとき、小島さんと一緒にいると「いまのは○○語」と教えていただけるのは、何とも贅沢でした。

もと来た橋を渡り、別の道からストラスブール市内に入って、運河沿いの道を歩きました。この運河には、かつては水上交通で稼働していた船がいくつも浮かんでいます。現在は廃業してしまった船主たちが、改装して自宅にしているということです。「かつて運搬船、いまはカフェ」という船は、旧市街に面する河の上でよく見るのですが、街外れだとそうでもありません。考えてみれば、河川や運河の上だと土地税もかからないので、住処にしやすいと云うことでしょうか。

市街地に戻り、オランジュリー公園で一休みした後、公園を抜けて欧州評議会の建物を見ます。英国のユニオンジャックは、ありませんでした*3。コンタッド公園の一角を占める、巨大なシナゴーグにも案内してもらいました。かつて私が訪問したシナゴーグは出入り自由なところが多かったのですが、このシナゴーグは入り口のフェンスが固く閉じられ、入ることができませんでした。以前は出入り自由だったが、昨年のイスラエル軍のガザ侵攻以降は襲撃を警戒しているようだ、とのことでした。

そして、前日と同じところで夕食となりました。前日の若い男性の給仕はアルザス語を解しなかったので小島さんは驚いていたのですが。この日に対応した若い女性の給仕はアルザス出身のようで、小島さんと話し始めると、パッと笑顔を弾けさせたのが印象的でした。後で教えていただいたところでは、このときにアルザス語に会話を切り替えたのだということ。劇的というのがふさわしい、鮮やかな変化でした。

夕食後は夜景を眺めて旧市街を歩き、そして宿の近くで、再会を約束してお別れしました。記憶に残る、とてもとても贅沢な2日間でした。

※小島さんも、ご自身のブログで私の訪問を紹介してくださっています。実に5本にわたっています。こちらから各記事をご覧ください。

※4月2日追記:小島剛一さんから、私の記憶違いを2か所、教えていただきました。ご指摘ありがとうございます。色と字の太さを変えて修正しましたので、何処を変えたのか、ご確認ください。

ryokojin.co.jp

小島剛一氏の、2010年の著作です。発行元の「旅行人」は、私が青春の全ての期間でお世話になった旅の猛者の集いの場は、昨年をもって紙の本の取り扱いを終了しました。Amazon経由であれば、未だ紙の本は入手可能のようです。

www.kyoto-up.or.jp

指導教員・渡邊伸先生の御著書です。・・・しかし版元在庫切れか・・・

*1:私の感覚では、クラッカーと思えるものでした。見た目も食感も。

*2:「饅頭怖い」の類いの戯言です。

*3:これは嫌味です(笑)