ミスター・ドラゴンズ、バットと記憶をナゴヤに残し・・・

広角に糸引くライナー=中日・立浪、たゆまぬ努力で「職人」に
2009年9月30日 時事通信

 糸を引くようなライナー性の打球は、まさに打撃職人の技だ。球を確実にとらえ、広角に打ち分ける巧みなバットコントロールで安打を量産してきた立浪。中日一筋22年、ミスタードラゴンズとしてファンに愛された背番号「3」が今季限りで現役生活に幕を下ろす。
 大阪・PL学園時代は主将として甲子園春夏連覇。高校ナンバーワン内野手として1988年にドラフト1位で入団した。身長173センチと体格には恵まれていないが、たぐいまれな野球センスを存分に生かした。
 高卒1年目で大洋(現横浜)との開幕戦に先発出場。当時大洋で開幕投手を務めた欠端光則氏(現横浜広報)は「攻走守三拍子そろっていた。体の小さい割にはしっかりバットを振って長打力もある。あまり穴がない感じだった」と振り返る。開幕戦の六回に放ったプロ初安打は右翼線の二塁打。そこから積み重ねた安打数は歴代7位の2480本。通算487二塁打プロ野球記録だ。
 天性の才能は、たゆまぬ努力があったからこそ花開いた。真夏のナゴヤドーム。まだ練習前で照明もついていない真っ暗な中、外野フェンス沿いを一人で黙々と走り込む立浪の姿があった。近年は右肩の故障などもあって定位置を奪われたが、練習に取り組む姿勢、自分の打撃技術を惜しみもなく伝える熱心なアドバイスで、ナインから絶大な信頼を得ている。
 今季も代打の切り札として活躍。「代打立浪」のアナウンスが告げられると誰よりも、大きな声援が球場に響き渡る。「振り返ればこの体でよく持ってくれた。常に負けん気だけは持ってやってきた」。クライマックスシリーズを勝ち抜き、日本シリーズへ−。最高の舞台で花道を飾れるか。

遂に、「その日」がやってきました。これまで「ミスター・ドラゴンズ」としてドラゴンズを引っ張ってきた立浪和義の、ナゴヤでの公式戦最終試合です。
「本当に、立浪は今年やめるんですか?」
銭湯のサウナで、隣で一緒に汗を流すおっちゃんに訊かれた時に、「信じがたいですけどねぇ・・・」と返答したことを、しみじみと思い出します。実のところ、中日スポーツでは今年、「立浪ラストイヤー」にちなんだ特集コーナーで連載を行っていましたから、そりゃやめなかったら体裁悪いだろうな、と考えていましたが。「守りと走りの衰えを感じて」引退を決意したとのことですが、おそらく今でも、他の球団に行けば、普通にレギュラーを張っていることでしょう。逆に言えば、いざという時にこの男が控えている、と想定することを求められていた敵チームは、ことに今年は戦々恐々としていたことでしょう。
思えば、私が野球に関心を持ち出した頃から、ずっと今までナゴヤのダイヤモンドには彼が君臨していました。タイトルにはついぞ縁がありませんでした。おそらく打撃タイトルに再接近したのは2004年、古田敦也との間で途中まで、首位打者争いのデッドヒートを展開しましたが、両者ともに球界再編騒動で神経をすり減らし、結局届きませんでした。しかしながら、積み重ねた二塁打記録をはじめ、蓄積された記録はいずれも、この選手が超一流のプレーヤーであったことを我々に知らしめてくれます。今日最後の打席で打った安打も二塁打、ナゴヤではツーベースで始まり、ツーベースに終わる・・・何処までも、立浪らしいなと思います。
ともあれ、我らがミスター・ドラゴンズよ、お疲れ様でした。

※夜補記:
さっきコンビニで中日スポーツを買ってきたら、「背番号3を永久欠番にするかどうかで協議中」という記事が目に飛び込んできました。私としては、立浪の番号を欠番にするかどうか、賛成でもあるし反対でもあります。以前は「当然、永久欠番にすべき」との立場だったのですが、ふと千代の富士の事例を思い出して、ちょっと考えが変わりました。相撲協会の満場一致で「一大年寄」の栄誉を承認された千代の富士が、「有望な後進に、自分のしこ名を与えたい」といって名誉を辞退したという事例です。立浪も、「次なるミスター・ドラゴンズに背番号3を背負って欲しい」と考えているのではないかな、と思うのです。つまり、この問題には正解はないだろうな、と。ですから、出た結論に従いたいな、と今は思うのです。