石見銀山世界遺産登録記念:学科旅行・石見の国訪問記

今更ながら、6月半ばに行った、出雲への学科旅行の記録を掲載します。ミクシィからの転載ですが、一気に全て載せます。ついてきて下さい。


6月11日(学科旅行一日目)

起床した時点で、睡眠時間は二時間ほど。何しろ前日まで準備など皆無だったのだから、無理もない。それで、起床は4時半。ヘロヘロの状態で、集合場所である府大の一号館前へ。集合時間は6時15分となっていたが、それより前には到着する。ただし、出発時刻は、当初予定の6時半から大幅に押して7時となる。そりゃ、定時出発は無理だわな、早いし。
途中、京都駅八条口で京都駅合流組を収容し、バスは出雲を目指す。今年の参加者は50人近くになるという。学科旅行には三年連続で参加しているが、最大規模ですな。過去2年と一番違うのは、私の顔に髭が無いことですが(笑)。
途中休憩三回、5時間ほどの所要時間をかけて、貸し切りバスは松江駅に到着。ここで一時間ほど自由行動の時間となり、私は少しフラフラと歩く。松江城は、やや遠目に望むくらいしかできなかった。残念。


さて、ここで後発組となる先生方や遅刻者を収容し、荒神谷遺跡へ。考古学の先生の解説付きという、何とも贅沢な話であるが、ここに着いた頃には結構暑くなっている。緑したたる谷の中にある遺跡は、ややこぢんまりした感じで、銅剣や銅矛が発見された時の様子が再現されているのみ。有名な割には小さいので、少しがっかりした。
これが学会に与えた衝撃の程が理解できたのは、荒神谷の後に訪れた出雲歴史博物館の展示を見た時のこと。出雲大社に隣接する、オープンしたばかりの新しい博物館には、荒神谷から発掘された銅剣・銅鐸の本物とレプリカが並べて展示されているのだが、巨大なショーケースにズラリと並んだ銅剣の数は、圧倒的。なにしろ、全て国宝。それが、300本ばかり並べてあるのだ。
「こりゃすげえ」
という嘆息しか出て来ない。
もっとも、この博物館に関しては、並河萬理の特別写真展をやっていて、真っ先に足を向けたのはそこだったのだが。居並ぶ世界遺産の写真を見て、
「嗚呼、懐かしい」
と呟きながら頰ずりをしそうな自分に、思わず苦笑した。


そして、出雲大社へ向かう。まず驚いたのは、本殿の巨大さ。京都の各神社はもとより、伊勢神宮ですらこの規模には及ばないのではなかろうか。そして、次に驚いたのは神社の形態。私の知る限り、山や丘を背にして立っている神社の場合、本殿は山や丘の中腹、もしくは頂上に建っているケースが多い。しかし、この神社は本殿の位置が最も低く、そこからせり上がるようにして神社と門前町を区切る鳥居に出て、この鳥居が神社の敷地内での最高地点にあたる。そしてここから、なだらかに下るようにして門前町が展開するのである。うーん、変な形だ。
そして夜は、夕食と入浴の後、宿舎にて懇親会。片手に酒盃、片手に(何故か)『旅行人ノート』、という傍目にも怪体な構図であるが、非常に楽しい一時であった。



6月12日(火)(学科旅行二日目)

睡眠時間は6時間弱というところだが、元気に7時前起床。8時半頃にホテルのロビーに集合、向かうは石見銀山。途中、海の見えるサービスエリアでの休憩を挟み、石見銀山入り口の大森代官所跡に到着したのは11時過ぎ。此処に小さな駐車場があるのだが、何故か西南戦争の忠魂碑が立っているのが面白い。全員下車して暫くすると、此処で合流のK林先生が颯爽と(京都から!)自家用車で登場、唖然とした。


さて、世界遺産に登録前(思えば私は、そんな偶然に結構遭遇している。中国の竜門・雲崗の両大石窟も、世界遺産登録前、入場料が現在の半額の時期に行ったのだ)、それも平日の事で、観光客も少ない。レンタサイクルを借りるが、当然ながら学科旅行参加者全てが利用できる程の分量はない。
代官所跡は現在、石見銀山の資料館になっているのだが、此処で館長さんの説明を聞いた後、銀山内の龍源寺間歩(トンネル)まで向かう。しかしながら、自転車組と徒歩組は当然ながら速度に差があり、私も含めた自転車組(といっても、一団となって行動していたわけではないが)は、一足先に龍源寺間歩に到着する。日差しの強い日であり、しかも道は結構きつい上り坂とあって、自転車をモーレツに漕いできた結果、到着時には既に汗だくとなっていた。
待つ事しばし、しびれを切らした自転車組が間歩内に先行突入を決議しかけた頃に、館長さんや先生方に引き連れられた徒歩組が合流、間歩内の見学。外とはうってかわって、間歩内は浸み出た地下水の冷却効果で涼しい。しかも、整備された間歩の中まで自転車で乗り入れる事が出来た。
反対側に抜け出ると、自転車組は坂を一気に駆け下りる格好となる。速度の出過ぎで、逆に著しく怖かった。鬱蒼と繁った森の中、結構気持ちが良いのだが。そう、この鉱山に森が鬱蒼と繁っている、というのが、南米のポトシのような鉱山と比べて著しく違うところだろう。


石見から宿舎の玉造温泉に戻ると、今日も長風呂、そして夜は酒宴。この日の酒宴では、体調も考えずに呑みすぎた。それもこれも、K林先生に一升瓶をドンと突き出され、
「これの始末をよろしく」
と言われ、
『これは呑み干さねばなるまい』
と、ワケのわからない義務感に燃えてしまったのが全ての運の尽きだろう。一升瓶の脇に鎮座していた「鍛高譚」と交互に呑んでいた所為か、著しく酔いが回ってしまった。


6月13日(水)(学科旅行三日目)

学科旅行三日目の朝の寝覚めは、恐ろしく最悪。二日酔い+睡眠不足と来れば、無理もないことである。しかも代謝不良まで重なったらしく、小便すら出ない。気持ち悪い・・・朝食も、無理矢理押し込んでいる感じ。フラフラの頭の私の目に飛び込んできたのは、門脇禎二先生の訃報であった。


さて、今日の目的地は、三仏寺投入堂。かつて役行者が仏を投げ入れたとの伝説があるお堂であるが、巡礼路の入り口に立って唖然。
何だ、この登山路は。
三ヶ月前、エジプトから帰国してきた時、靴を買い換えておいて良かったと、今更ながらに思った。


総勢40人を超そうかという一行は、長蛇の隊列を組んでこの山道を上る。一応整備はされているみたいで、あちこちに
「平成16年整備」
とか、
「右の道は滑落現場につき通らないこと」
なんていう恐ろしいプレートが散見するが、その道をガシガシ進んでいく。体調不良ながら、私は先頭グループを形成する。私と殆ど肩を並べる位置にいるのは、昨夜私と肩を並べて一升瓶を空にしたF君。普段は机にかじりついている人が多い所為か、あるいは人が多すぎる所為か、休み休み進んでいった結果、通常45分で着くはずの投入堂に到着したのは出発から1時間半後。さすがにヘロヘロだが、景色は恐ろしく良い道であった。
もときた道を逆送して全員無事にふもとに生還した後は、バスに乗り込んで、一路京都に戻る。翌日の会議の資料とか、そんなモノは一切合切放り投げて、私は取り敢えず寝ることにした。
代謝不良は、その後2日ほど尾を引いた。