2024年春旅の記録②エディンバラ~ロンドン

3月20日更新

今回の旅程で、一番苦慮したのはエディンバラに飛ぶ時期をどこで持ってくるか、ということでした。これは、

  1. ストラスブール訪問
  2. 南仏のローマ遺跡とアヴィニョン教皇庁訪問

という2点を至上命題として旅程に組み込んだことによります。ここで厄介になってくるのは、フランスという国が、交通政策において、極端に中央集権的であることです。つまり、パリ起点であれば何処に行くにも都合がよいのですが、パリ以外のある地点から別の場所に行くとき、鉄道でも、場合によっては飛行機でさえ、パリを経由することになってしまうのです。今回であれば、南仏~仏独国境地帯を直線でつなぐ路線はなく、例えばマルセイユからパリを経由しなければストラスブールには行けません。これでは、せっかくTGVを使っても6時間はかかってしまうのです。

ならばバスで、ということになりますが、これが意外に難儀しました。ヨーロッパ各地をつなぐFlixbusの予約と発券が、Microsoft Edgeで上手くいってくれないのです。サウジ旅行の悪夢再びです。で、Google Cromeに切り替えて、なんとか上手くいきました。

これに併せて、フランスから英国に、どの時点で立ち寄るかも決まりました。まさかパリ入国の次の日の夜に出国するとは、パリ行きの航空券を買ったときには想定していませんでしたが・・・

閑話休題

かくして、シャルル・ド・ゴールの入国ゲートをくぐった次の日に早くも出国し、5年ぶりのエディンバラへの「里帰り」、今回は夜景を空から眺めつつ着陸することになりました。で、とりもなおさず、これはBrexit後は初の英国入りです。それを実感したのは、入国審査の時に乗客全員がパスポート提出を求められたことです。前回、2019年までであればEU市民は身分証の提示だけで良かったのです。それが今回は、EU市民もパスポートの提示を指示されていました。英国が本当にEUから外れたんだなぁ、と実感した瞬間でした。遅い時間でしたので、今回は空港からトラムで出ることができず、終夜運行のエアリンクのバスでエディンバラ市街地入りしました。今回の宿も、前回同様のロイヤル・マイル終点付近のキャッスル・ロックホステルです。

翌朝、最初に向かったのはウェイバリー駅にあるウェイバリー・モールです。目的は、5年間の不在期間中に新しい札に切り替わったUKポンドの旧札を、新しいお札に替えることでした。中央郵便局に行って首尾良く新札を手にした私は、デザインを確かめて呆然とたたずむ事態に陥りました。入手した新札のほとんどが、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド発行のスコットランド・ポンドだったのです。

「イギリス」訪問経験がある人のうち、このことを実感している人は多くないのではないでしょうか、英国には(少なくとも)バンク・オブ・イングランド発行のイングランド・ポンドと、上記スコットランド・ポンドが併存しています。もちろん等価の通貨なのですが、

という不均等が、厳然として存在するのです。2009年にエディンバラの中央郵便局で日本円から両替したときには、すべてイングランド・ポンドで受け取りました。だから今回も・・・と思っていたら、当てが外れたわけです。その場でイングランド・ポンドへの交換を要求するも撥ね付けられ、ならばとRBSで要求したら「口座所有者にのみ対応」という具合で、途方に暮れてしまいました。幸い、昼にお会いしたエディンバラ大学日本学科の先生に相談したところ、首尾良く(その先生が口座を持っているRBSで)イングランド・ポンドに替えてもらえたので、事なきを得たのですが。なお、これは紙幣の話です。旧の1ポンド硬貨については、何処でも替えてくれませんでした。それどころか、

「スーパーで買い物をするときに使うんだね」

と宣う始末。ロンドンで実際にやってみたら、使えませんでした。自国の通貨に対する英国のこの無責任は一体何なのか、こんな姿勢でBrexit後の情勢に対処できると思っているのか・・・と思ってしまいました。*1 余談ですが、Brexitに際して明らかになったのは、イングランドスコットランドの巨大な亀裂でした。EU残留・離脱で激しい罵り合いを展開していたのはイングランドの話で、スコットランドの多数派は、あの時点でも今でも変わらず、EU残留支持です。といっても、スコットランドは全体の人口がロンドンにも及ばないので、その民意が英国の国政に反映されがたい。しかし、なかなか日本ではなじみのない話だわなぁ・・・

そういった事情を引きずりつつ、エディンバラは勝手知ったる街です。知己と久闊を叙することで、あっという間に時は過ぎ去っていきました。特に、23日に指導教員のアンドリュー・アースキン先生と再び面談できたのは、とても嬉しいことでした。私が現在取り組んでいるペルガモンの研究は、実はエディンバラ大の修論執筆の際に、アースキン先生から研究を提案されたものでした。その成果として論文をひとまず一本出せたのは、やはり先生の指導のおかげです。その他の友人たちも、会わない間に親になっていたり子供が増えたり・・・そのような子育ての話を聞いたり、外出禁止時期のこと、オンライン授業の時の状況などの情報交換は、印象深いものでした。

珍しく晴天の下のエディンバラ城(左)と市街

エディンバラ滞在中に「ここは行っておこう」と事前に定めていたのは、ディーン・ヴィレッジでした。市街地北方のグラントン方面にホームステイしていた2009年には、市街地に入る際に必ずディーン・ブリッジを渡ったのですが、その下の集落には足を向けたことがありませんでした。・・・まぁ、正確には行く気にならなかったのです。そこがかなりきれいなところだというのでInstagramなどでよく紹介されており、訪問したわけです。たしかに、品の良い集落でした。

ディーン・ヴィレッジとディーン・ブリッジ

長らく不在だったホームズ氏@ヨーク・プレイス*2

エディンバラからロンドンへは夜行バスで出ました。途中まではスイスイだったのですが、ロンドンが近くなると大渋滞に捕まり、ヴィクトリア・コーチステーション到着は当初予定から1時間ほど遅れました。到着翌日の早朝には空港に移動するため、宿はヴィクトリア近くに取りました。やはりこのあたりは、物価の高いところですねぇ。フィッシュ&チップスにビール一杯で£30いきました(涙)。今回は、13年ぶりに大英博物館を見学しました。何回行っても、時間が本当に足りませんねぇ、ここは。昔の『地球の歩き方』だと「目安の見学時間:半日以上」とあって大笑いしたのですが、最近の版だとありません。復活してくれませんかねぇ。そんなこんなで、スコットランドイングランドの「首都をつなぐ旅」は慌ただしく終わりました。

ロゼッタストーンのレプリカと英国会議事堂

 

*1:現行の1ポンド硬貨は2017年2月発行ですが、2018年および2019年に渡英の際は、問題なく使えました。手持ちの旧1ポンドは2020年に渡航の際に銀行で新しいものに変えて貰おうと考えたのですが、同年の第2SARS流行に伴う渡英断念で、それは今回まで延び延びになっていました。今回挑戦してみたところ、敢えなく失敗したというわけです。こちらの記事とこちらの記事を参考にして試してみたんですがねぇ・・・「期限はない」って嘘でした。交換できなかったのもさることながら、銀行の窓口担当者の人をなめたような言い草に、腹が立ちました。

*2:2009年に訪問したときには、この写真とほぼ同じ場所に立っていましたが、2010年の再訪時にはいなくなっていました。

2024春旅の記録①日本~パリ

(3月18日更新)

5年ぶりのヨーロッパ行、今回はベトナム航空で関空を出発し、ハノイを経由してフランスのパリに達する(戻りはサイゴン経由)経路を選びました。KIX–パリ便の最安値は中国系の航空会社だったのですが、北京での乗り継ぎ時間が2時間を切る設定になっていて、二番目に安かったベトナム航空を選んだ次第です。で、なんとこれが、初めてのパリです。厳密には2000年にフランスを通過した際に朝のセーヌ河を見ているのですが、下車して観光などはしていないので、やはり今回が初のフランスです。

ハノイの乗り継ぎの時間を利用して旧市街を少し観光した後、パリまでの便に乗り継ぎました。フライト時間は14時間弱というところ。空港での入国手続きに続いて空港でSIMカードタブレットに入れ、市内に出ます。朝9時半からヴェルサイユ宮殿の見学を予約していたので、荷物は担いだままでヴェルサイユ直行を選びました。

しかし、これが後で響きました。まず、ヴェルサイユ行きの近郊列車を乗り間違えて、ヴェルサイユ到着は当初予定から遅れて10時半頃でした。見学時間は予約の取り直しでどうにかなりましたが、ここには荷物預け所がないのです。結果、重い荷物を一日中担いで宮殿見学という羽目になりました。

ヴェルサイユ宮殿正面と庭園

さて、重い荷物を担いでのヴェルサイユ宮殿、まず驚いたのは、正面から見たときの大きさと派手さです。キンキラキンですね。次に敷地に入って中庭から正面、つまり建物の外壁を見てみると、凹みという凹みにローマ皇帝の胸像が鎮座していて、「皇帝」を称する資格のないフランス王の、「皇帝」の称号を持つハプスブルク家への対抗意識が一目でわかる構図になっています。この外壁の飾りが、宮殿の性格全体を象徴していると云って良いでしょう。とことん、フランス王室という宮廷芝居の舞台として設計されているのです。つまり、冬は寒そうで暮らすには不向きだなぁ、というのが派手な宮殿を見て回りながら思ったことです。ここに比べれば、広大な庭園の中にある小トリアノン・大トリアノンの2離宮は、作りもややこぢんまりとして、取り回しが楽であろうという印象を受けました。ヴェルサイユからトリアノンへ向かおうと外に出たところで雨が降り出したのには憮然としましたが。

(左)ヴェルサイユ宮・鏡の回廊(右)大トリアノン宮室

フランス初日はヴェルサイユ見学で一日を費やしてしまいましたが、入場に際してパリのミュージアム・パスの二日券(€49.50)を購入していました。二日目は、これを朝からフル活用して、サント・シャペル→アンヴァリッドルーブル美術館と駆け足で見て回りました。

まずはシテ島の中にあるサント・シャペルです。前日来の雨に悩まされつつ入った礼拝堂は、2階に上がると全方位からのステンドグラスが実に鮮やかです。晴れていたら、もっと荘厳な雰囲気だったと思いますが、外が雨でも充分に堪能しました。

シテ島からは徒歩でアンヴァリッドに向かいました。距離はなかなかありましたが、サン・ジェルマン通りを通りながらの街歩きは、なかなかのモノでした。アンヴァリッドは入り口を間違えて、外周をぐるりと一周することになってしまいました。この建物、日本語に訳せば「廃兵院」すなわち軍病院だったところですが、現在は軍事博物館です。もっとも、博物館の展示物は、見ませんでした。用があったのは、アンヴァリッドの中央に鎮座する教会の天蓋の下に君臨する、ナポレオンの石棺です。赤茶けた大理石作りの巨大な石棺の存在感は、圧巻でした。

(左)サント・シャペル(右)ナポレオンの棺

この後は、しとしと雨の中を歩いてルーブル美術館に向かいました。後で思えば、これはメトロを使えば良かった・・・後で地図を見たら、アンヴァリッドからルーブルまでは、メトロで4駅分の距離があるのです。間にグラン・パレ、コンコルド広場にチュイルリー公園が横たわっているわけで、いくら歩いても着く気がしないのは、当たり前です。やっとの思いで、ルーブル美術館に駆け込みました。12時45分でした。

さて、もとはこの美術館は宮殿で、すぐ隣には第三帝政の崩壊時に消失したチュイルリー宮殿がありました。ということは、ルーブル宮はパリの主宮殿の一角を占めていたということで、なるほどデカいわけです。その器が一杯になるくらいのお宝を詰め込んで展示しているわけですから、

「1日で終わるはずがない」

と、最初から腹をくくっていました。ただ、1階だけで2時間以上を軽く費やすとは・・・かのハンムラビ法典の本物を見ているときに、見知らぬ白人カップルと

「エジプトコレクション、何処にあるか解る?」「いや、私も探しているところなんだけど、何処かなぁ?」

というやり取りをしたのは他愛もない笑い話でしょうか。結果、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠」は見ることができましたが、ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」は見学できず。ミロのヴィーナスとサモトラケのニケで時間を費やしすぎたかなぁ・・・有り難かったのは、写真撮影がだいたいOKであったことでしょう。もっとも、特別室に隔離されている「モナ・リザ」については、人だかりの方が目立ってしまっていますが。

説明不要の2点

朝からパリの観光名所を駆け足で回ったところで、ゆっくりすることもなくシャルル・ド・ゴール空港に向かいました。22時発のEasyJetで、エディンバラに飛んだのです。

 

年の瀬に(2023年)

2023年も、暮れようとしています。

今年の大きな変化としては、大学で専門の授業を持ったことでしょう。初めての講義は、これまでの英語の授業とは大きく違っていたため、まごつくことも多々ありました。これまで勉強してきたことを踏まえてのものとはいえ、こんなにもあたふたするものかと、我ながら反省することばかりでした。

その専門との関連では、学会が通常運転に戻った感があります。とくに5月の名古屋大での西洋史学会は、多くの先生方との再会の場となりました。嗚呼、またお会いできて良かった、と何人の先生に挨拶しながら思ったか知れません。

また、今年は海外への旅の復帰を果たすことができました。特に、念願かなってサウジアラビアを訪問できたことは、我ながら大きな喜びでした。中東史研究者と自認する私ですが、中東をこれほどどっぷり旅したのは、2011年のトルコ旅行以来です。私の旅人としての衰えを痛感するひと時でした。この時の経験をもとに12月の古代史研究会で行った「遺跡紹介」は、思えば私のこれまでの報告のうちでも、一番自分らしいと言えるかもしれません。

旅と云えば、今年は8月に四国遍路を2泊3日で「繋ぎ打ち」してきました。この遍路は大変な行程となってしまいましたが、一方で心に残るものでした。嗚呼、早くそれも書かねば!

他にも、今年積み重ねた個人的な蓄積は多々あれど、このブログで十分に反映できていないと自戒する次第です。そして、研究ももう少し進めていかないと、と年の瀬に改めて自省するしだいです。

明年が、このブログをお読みの皆様にとっても良い年でありますように。

第22回古代史研究会報告記(但し研究報告ではない)

年末恒例の古代史研究会が、今年は同志社大学で開催されました。例年なら京都大学での開催ですが、今年は担当の先生が在外研究中のため、同志社での開催となった次第です。今年は、私も報告してきました。とはいえ、通常の研究報告ではありません。それは、案内に記載された報告者および題目を見れば明らかになると思います。

研究報告 1:小山田真帆(京都大学

「古典期アテナイにおける男性同性愛と民主政イデオロギー」 

研究報告 2:大谷哲(東海大学

「対立の結果としてのフィランスロピア―カエサレアのエウセビオスの用語法-」 

研究報告 3:小坂俊介(愛知教育大学

「後期ローマ帝国におけるコンシストリウム」 

研究報告 4:辻坂真也(同志社大学

「初期メソポタミアにおける王の死-ウル第三王朝における王の死後儀礼-」 

遺跡紹介:柴田広志(佛教大学) 
「「秘境」サウジのナバテア岩窟墓群-マダ・イン・サリーフとサウジアラビアの最新旅行情報-」 

すなわち、夏のサウジアラビア旅の際に訪問したナバテア王国の遺跡マダーイン・サリーフについて話すという、・・・私らしいといえば私らしい報告になった次第です。まぁ、一人だけ題目が可笑しなことになっていますが。

もっとも、実は直前まで冷や汗をかいていました。前日から突然の腹痛に見舞われ、うんうんうなりながら近くのドラッグストアに駆け込み、飲んだ薬が効いたおかげでなんとか無事に報告できたという次第です。声は、我ながら情けないほどにかすれていましたが(涙)。また、内容が内容だけに、提出したレジュメよりもパワーポイントが主という報告になりました。

恐ろしかったのは、

「絶対に君の報告は聞かないと!と思って来た」

というコメントが意外に多かったことです。気軽に聞いてもらえたおかげか、反応はそんなに悪くなかったと思います。

ともあれ、これで気分良く年越しができそうです。

岸和田健老大学講義打ち上げ

9月30日更新

4月に始まった岸和田健老大学専門講座、
「西洋古代史 -欧米世界の「古典」ギリシア・ローマ」
本日、2023年度分の最終講義でした。

岸和田はこれまで通過したことしかない場所でしたが、思わぬ縁で、西洋古代史の概論的な講座を担当することになりました。
岸和田健老大学で西洋史の講座は極めて稀だったということでしたが、熱心に聴講していただけたと思います。

最終日の今日は、事前に提出した進行表では帝政期を追いかけることになっていました。

ただ、前回7月の講義で、共和政の最後を飾る第一次・第二次三頭政治を講義することが出来ませんでした。
そこで今回は、カエサルからローマ帝国の東西分裂までを駆け足、というより全速力で見ることになり、なおかつ十分弱延長してしまいました。

講義の後は、恒例となった、担当スタッフの皆さんとの談話会となり、サウジアラビア土産のデイツ(乾し棗椰子)を振る舞いながら、現地での話などをしました。

岸和田健老大学のスタッフの皆様、縁をつないでくださった京都府立大学の井上先生、ありがとうございました。篤く御礼申し上げます。

サウジアラビア訪問記:総集編

8月20日サウジアラビアのジェッダから入国し、昨日、帰国しました。日本の出入国地点が成田だったため、一日遅れの日付での報告となっております。細かい報告はまたボチボチと云うことで、①全体総括および各都市(②ジェッダ、③マディーナ、④マダ・イン・サーレハ)についての短報のみ列挙します。(1JPY=0.026サウジリヤル(SAR))

マダ・イン・サーレハの墓群のひとつ

①全体的なところ

  • 事前調査が、まったく用を為さない。到着時点での情報検索が頼み。したがって、インターネットに接続できないと、その時点で試合終了。
  • 公共交通という概念が皆無であり、市内移動はタクシー頼み。
  • 大都市は何処も再開発で土木工事をやっており、バスターミナルが事前調査した場所から郊外の辺鄙なところに移動していることが多数。
  • ビザの発行申請も含めて、発券に際しては、PCのブラウザではMicrosoft Edgeは使い物にならない。SAPTCO(サウジ公営交通)、アル・ウーラのツアーなど、Google Chromeでないと発券しない。スマホタブレットはその限りではないと思われる。
  • Google Chromeでも、クレジット決済の際に使えるカードと使えないカードがあるので注意。航空会社のマイレージカードは使えない可能性があるので注意。銀行のクレジットは、一度蹴られた後で確認のメールが届き、確認の上決済、という手続きを踏む場合が多かった。
  • 宿の予約はBooking.comやAgodaなどのオンラインが主となるが、予約して現地に行ってみると、看板を出していないところが相当にある。今回はマディーナとアル・ウラーの宿がそうで、見つけるのに一苦労した。

マディーナのSAPTCOバスターミナル近くの光景

②ジェッダ

  • アブドゥルアジーズ空港から旧市街近くまでは、SAPTCOのバスで20SAR。ただ、国際線が乗り付けるN(北)ターミナルから第1ターミナルを経由する際に、かなり長時間待つ。
  • 空港からのバスの終点はショッピングモールが多数あるところで、おそらく以前は、このあたりにバスターミナルがあった。現在も、市内バスのターミナル。私が泊まったAl-Nadah Hotelはすぐ近く。(全然期待していなかったのですが、旧市街との距離も含めて、実に便が良いところにある宿でした。高いけど)
  • 市内から空港へは所要1時間ちょいと云うところ。バスは1時間3本という話だったが、14時台は1時間1本だった。
  • Al-Nadah Hotelに近いLulu ExpressというショッピングモールのHael通りに面した出口に乗り合いタクシーの乗り場がある。マディーナまで4時間ほど、料金は一人あたり100SAR。
  • Googleマップで最初に出てきたSAPTCOのバスターミナルは、鉄道の駅と同じ敷地に移転。旧市街にちかいAl-Nadah Hotel(市内バスのターミナル付近)まではタクシーで10㎞ほどの距離。
  • もしジェッダの宿を確保していない場合は、空港から直接マディーナに向かう方が都合が良いと思われる。マッカとマディーナをつなぐ「ハラマイン高速鉄道」の駅が空港内にある。ウェブサイトの予約画面を開くと「ビジネスクラス」の値段が表示されて尻込みするが、それよりはずいぶん安い「エコノミークラス」の予約も出来るようになっている。
  • 夏場、日中は出歩くだけで汗が止まらない「天然サウナ」状態。その代わり、夜は涼しく、旧市街は日中よりも夜の方が明るく栄えている。

世界遺産・ジェッダ旧市街

③マディーナ

  • SAPTCOのターミナルは、旅行記サイトなどで記載されている預言者モスク北側という至便の場所から、西に10㎞ほど行ったTabuk地区の荒野のど真ん中に、2023年8月10日に移転。バスターミナルは現在、掘っ立て小屋のような仮事務所で営業中。
  • 旧SAPTCOターミナルは乗り合いタクシー乗り場として機能している。ただし大都市間の便しかない。
  • 預言者モスクは現在、異教徒も訪問可能。
  • 周辺の歴史的な見所は観光バスが運行しており、一通り見て回ることが出来る。24時間有効で80SAR。
マディーナの預言者モスク、昼と夜の光景

④アル・ウラー(マディーナまで100~110SAR、ジェッダまで179SAR)

  • マダ・イン・サーレハ観光の基地。裏を返せば、他に用事は何もない
  • マダ・イン・サーレハは現地ではHegraと呼ばれており、この場所には現地ツアーを利用していく。1日3便(午前2便、夕方1便)。各所要2時間ほど、料金は95SAR。
  • Hegraツアーの起点となるWinter Parkは市内から10㎞ほど離れており、タクシーで乗り付ける以外に手段はない。また、帰りもタクシーで戻るしかないが、Winter Parkと市内は高速道路で結ばれているだけで、タクシーを捕まえるのは至難の業。手配が必要になる。私は通りがかりの気の良い兄ちゃんに拾ってもらって市内まで乗せてもらったが、これは参考にならない。
  • 郊外の宿が多く、市内の宿はAir B&Bのモノが多い。値段と宿の設備がまるで見合っていないことも多い。
Hegraツアーの起点Winter Park周辺の写真と、マダ・イン・サーレハの墓群の1つQaṣr al-Farīd

 

サウジアラビア訪問記①マディーナ編

12月30日更新

サウジアラビアは、旅行者へのビザが発給されない国でした。しかし2019年9月末から突如ビザの発給が開始され、一般旅行者も訪問できることになりました。かくして、この夏の旅はサウジアラビアを目指します。

成田空港から出発し、スリランカコロンボで一泊して、20日にジェッダからサウジアラビアに入国しました。ジェッダ空港から市内まではSAPTCO(サウジ公営交通)のバスで出まして(20SAR)、その近くの乗り合いタクシー乗り場からマディーナまで4時間ほど揺られてきました(100SAR)。乗り合いタクシーは町外れに到着するので、そこから宿まではタクシーで乗り付けました(30SAR)。

宿は表札も出ておらず、しかも再開発の行き届いていない地区にあるため、外出すると帰り着けずに迷子になると云うことが多々あります。

預言者モスク

さて、マディーナは、ムハンマドがマッカから逃れ、終の棲家を構えた場所です。そのムハンマドの住んでいた付近にあるのが「預言者モスク」です。広大なモスクは、昼の礼拝の時間ともなれば、その周辺も祈りの場と化します。とはいえ、昼の礼拝の時間には陽光が照りつけるため、モスク本体周囲の多くの開閉式テントが展開しっぱなしという状態です。夜に行ってみると、明かりが煌々と灯され、日中よりも涼しくて人出も多いです。やはり沙漠の国は、昼より夜が活動時間帯なのだと痛感します。

夜の預言者モスク

預言者モスクに隣接して、イスラーム文明博物館(正式名称はもっと長いのですが、無理やり縮めました)というのがありまして、ここは主にムハンマドの生涯の言葉をハイテクを駆使して紹介していくという、面白い博物館でした。なんだか、ITを駆使した学校という感じでしたね。学芸員さんが付きっ切りで案内してくれたし。

マディーナはイスラーム揺籃期の中枢で、初期にはマッカとの間に抗争を展開したところです。したがって、その周辺にはイスラーム草創期の重要な場所がいくつもあります。そういったところには、観光バスが走っています(80SAR)。この24時間以内であれば乗降自由の"Hop-on Hop-off Bus"を駆使して、マディーナ周辺の古戦場などの主要な場所を見て回ることができるわけです。

ヒジャーズ鉄道駅跡と、ウブドの古戦場後

また、このサウジには旅の先達・ハビーブまりもさんがお住まいです。今回のサウジ訪問の目的のひとつが、まりもさんにサウジでお会いすることでした。かつて世紀転換期頃のユーラシア横断・世界一周組の間では有名な存在だったまりもさんと海外で再会できるというのは、まさに旅人冥利に尽きるひと時でした。

宿の周辺