蔵出し書評② 下川祐治著『香田証生さんはなぜ殺されたのか』

香田証生さんはなぜ殺されたのか

香田証生さんはなぜ殺されたのか

二度目の「蔵出し書評」です。
2004年当時はさんざんに騒がれた「自己責任」論、今も覚えている人はどれだけ居るのでしょうか?私は多分、生涯忘れないと思います。自分の存在そのものを脅かしかねないような暴論が、大手を振ってまかり通っていた・・・いや、今でもまかり通って、今や「定着」しかねないような勢いですから。口をぬぐって自らの無知を忘却し去ったかのようなマスコミの報道ぶりを見るたび、忘れちゃいけない、絶対に忘れちゃいけない、でないと
「明日は我が身、だ」
と思っています。
思うたびに、この本を引っ張り出し、この書評を引っ張り出して読み返しています。ちなみにこの書評、書くのにやたら時間がかかったのを覚えています。
では、どうぞ。




本を読みながら、幾度となく呟いた。
この本に書いてある事は、私にはよく解る。
しかし、それは私が旅人としての経験を有しているからだろう。
果たして何処まで他の日本人に、−具体的に言えば
「旅を知らない」
人たちに、理解してもらえるのだろうかと。


昨年10月、イラク香田証生氏という名の日本人青年が拘留された−という一報が入った時、私が真っ先に指摘したのは、
「そのルートは、あり得ない」
という事だった。その時の私の指摘をまとめれば、次の2点になる。


①ルート選択が間違っている
イラクに限らず、中東関連の情報が豊富に蓄積されていそうな場所として、真っ先に思い浮かぶのはイスタンブールとカイロの二カ所である。この両都市であれば経験豊富な旅人も多く、最新の情報を得る事が出来る。また、この両都市を出発点にすれば、目的地に至るまでに旅行者としての経験を積む事が出来る。
しかし、香田氏のルートには、この両都市はおろか、アジアの他の国も殆ど入っていない。そこから、次の事が指摘できる。
オセアニアに滞在する事の無意味さ
具体的には、オーストラリアとニュージーランドである。このうちニュージーランドに長く滞在したにもかかわらず、彼の行動からは
「経験を積んだ旅行者」
の臭いを感じる事が出来ない。長期旅行者であれば、イラクに行く事を試みる前に、ほぼ間違いなく上記両都市を経由するはずである。それをしていないという事は、ニュージーランドではバックパッカー、もしくはビンボー旅行者としての経験や嗅覚を培う事がまず不可能、という事である。


上記二点に加えて、私の思考に方向性を与えたのは、事件から一ヶ月後に東京で会った、旅の道連れの1人であるS君の


「彼の行動は、(おなじ2004年の)4月に捕まった人たちよりも理解できるんですよね」


という指摘だった。
言われてみれば、確かにそうである。旅行者にとって、
「その場所へ行く意味」
を問う事は、全く無意味な事だからである。


かつて、私は「シルクロード横断」をした時、あるいはした後に
「自分の研究に必要だから」
という理由付けをした。それは嘘ではないが、全くの後付けである。
本当は、ただ単にシルクロード横断がしたかっただけである。
「危険だ、と言われているから」「人に迷惑をかけるから」
というのは、旅人を抑制する材料には殆どなり得ない(私の好きな旅人の名言のひとつに、「迷惑かけて有り難う」という快言があります。ね、フクさん)。彼らが立ち止まるのは、沈没している時でなければ、病気になった時か、自分の経験が
「これは危ない」
と告げる時だけである。


だから、イラク国境で足を止める事が出来なかった彼の心理は、
『何でも見てやろう』(小田実の著書のタイトル)
という旅人の根本心理と、それを止める事が出来なかった香田氏の
「危険を嗅ぎ取る嗅覚の欠如」
という、旅人としての未熟さにアクセスする事が出来る人でなければ、迫る事は出来ないだろうと考えていた。
案の定、下川氏の本が出るまで、私を納得させる活字のレポートは出ていないのである。


下川氏の著作は、私が上でダラダラ考察した事を大きく裏切るモノではない。むしろ、私の思考を裏付けてくれるモノである。
丹念に香田氏のコースを追いながら思考を重ねた下川さんの本を読みながら、やはり私は繰り返し冒頭に書いたような事を思わずにはいられなかった。これは、海外に一歩も出た事がない人に理解できるのだろうか、と。
では、下川さんにこの本を書かせた原動力とは一体何だろうか?と考えて、思い当たった。


前に、
「今の日本では旅が殺されている」
という、岡崎大五氏のコメント(→こちらの2005年11月7日の項。是非一読あれ!)を紹介した。おそらくは、下川さんも同じ事を考えているのだろう。かつて、
「些細な賭け」
でロンドンまでバスで乗り継いだ人のレポートをドラマにして2時間ずつ、3回に分けて放映した(『深夜特急』のことですよ、勿論)過去は何処へやら、今の日本では、下川さんや私の愛したスタイルの「旅」を全面的に否定する方向に突っ走っている、様な気がする。
議論の前提−「旅人の心理を知る」という行為を一切欠いた報道が、真に迫る事が出来ないのは当然である。だからこそ、その前提を再提示する為に、愛する旅を彼方へ追い払ってしまわない為に、下川さんはこの本を書いたように思う。
そして、彼は必死で訴える。
「確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」
と。この叫びを聞きながら、私の耳に飛び込んでくるのは、前川健一さんが『旅行記でめぐる世界』で繰り返した、
「旅に、理由など一切無い。旅が好きです、それだけで良いのだ」
というフレーズである。
しかし前川さんは、その後で呆れたように、
「しかしそれでは、世間が許してくれないらしい」
とぼやいている。その世間が今、旅を殺そうとしている。


そんな「世間」の築いた死体の山が今、なんとバンコクのカオサンに出来つつあるらしい。下川さんの本の末尾に近い辺りで、
「僕のような旅人は『トラディショナルパッカー』と呼ばれている」
とあった。
衝撃であったが、同時に納得もしてしまった。旅人の質が変化した、とは私も前の旅行の時に痛感した事だからである。
それでも、私は旅を続けるのだろう。自分のスタイルを変える事無く。
他人に旅を勧め続けるのだろう、成長することなく。

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