蔵出し書評③ 岩本悠著『流学日記』

流学日記

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「蔵出し」の書評は1年半ぶりですか。旅仲間の岩本悠氏が書いた本の書評です。いろいろ凄い漢です。原型は→こちらです。ちなみに、今は幻冬舎文庫版もあるみたいですね。ではどうぞ。

共にすごした時間のトータルとしては少ないか知れぬが、思い入れ深いルートの幾つかをを共に歩いた旅仲間のひとりとして、読後の感想を書かせて貰おう。

まずは、旅をしていた時の思い出から。
「旅」にどっぷり浸かってしまっていた私にとって、各地のNGOなどを精力的に訪問してまわり、観光名所には目もくれず、かといってピラミッド盗頂は単独で成功させてしまう本書の著者である著者・悠君には、かなり新鮮さというか、面食らった事を良く覚えている。
そんな彼が旅行記を書いたというので読んでみた。・・・いや実は、本の形で世に問われる前に、彼の原稿はメルマガみたいな感じで私のところにはちょくちょく来ていたから、内容は大体知っていたのだが。

通常−とくにここ数年の紀行文には、その傾向が顕著なように思われるのだが−、旅行記を書く人にとって真っ先に重要なことは
「ある場所に行った」
ことであり、その次に
「そこでこんな事を感じた」
と来る。だから、筆者の内面の想いは重要性において二の次、三の次になってしまい、見え難くなってしまう事が多い。
しかし、海外を旅する人たちは、こと内面の思索においては、日本に居る時よりも遥かに深い。基本的にずっと独りで異文化と向き合わねばならないのだから、それは当然だろう。
しかも海外を長く旅していると、結構暇な時間が出来てくる。特に、アジアを旅しているとそうだ。
それに、旅人たちも、絶えず移動を続けているわけでは無い。時には一ヶ所に長く逗留して旅の疲れを落としたり、床に横たわって下痢を癒したり、情報収集をしたりしなければならない。そんな時には、自分と向き合う時間が膨大に出来てくる。移動にしたってそうである。現地の人と筆談する手を休めたり、必死の英語を駆使する必要が無い時などは、窓外の景色に見入りつつ、思いは内向して行く。
そんな時に。

あるいは、列車やバスの窓ガラスに映る自分の顔が、語りかけて来るのかもしれない。
あるいは、繰り返し読んだ文庫本の行間が語りかけて来るのかもしれない。
あるいは、沙漠の蜃気楼が、砂丘が、問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、異境の河や海の水面に映った自分の顔が問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、便所の尻洗い用水桶の水に映る己の双眸が、問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、

・・・と、もうキリが無いのでここら辺にしておくが。そんな具合に、自分自身と向き合う機会が多いのだから、思いは深く沈潜し熟成されて行く。誰の中でも、それは同じ様に。スピードは、違うかもしれないけれども。
私も、数限りなく深く自分と語り合った。特に、下痢で死んでいてホームシックでのたうちまわっていた時に、向き合う相手は日本にいる懐かしき朋友たちの幻影と自分の影であった。
そういった内面の「想い」を出し切れないままに筆を進めて行くと、全体の構成が流れて行ってしまって、パンチの効かない文章となりかねない。

その点、悠君の場合は、
「俺がこんな事を考えた」
という事が一番はじめにポンと来て、その場所が「どこそこだった」とくる。従って、溢れ出す「想い」がストレートに読者の目に飛び込んでくる。だから、裸の「岩本悠」が、まさしくスッポンポンでフルチンの姿(ピラミッドの頂上ではホンとにフルチンになって立ち小便してますけど)を我々に真っ直ぐにぶつけて来ていて、思わず唸らされてしまう。それも、幾多の珍道中を共にしてきた私も見抜くことが出来なかった姿が殆どである。
その為、私が読んだ旅行記の中では、白眉のものに仕上がっている。

最後になったが、やはり彼は溢れ出す感性の人間なのだなあと思う。旅を
「流学」
と称し、旅の記録を
『流学日記』
なぞと銘打ってしまえる所など、脱帽するしかない。私の書いた文章なんて、
シルクロードの道端にて」
だもんね(未出版、というか出版の予定無しだが)。平凡なもんです。
で、長々と書いてきたけど、結論。
「面白かった!」
以上です。皆さん、手にとって読んでみてください。
なんだか「流学」って言葉、流行りそうな予感がするなあ・・・もう一部では流行る兆しを見せているしね。