書評『物語イスラエルの歴史』

物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ (中公新書)

物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ (中公新書)

最初に断っておく。
本来ならばこの本は、紹介したくなかった。しかし、どうしても、思うところを指摘する必要を感じた本であったため、断腸の思いで、敢えて取り上げたのである。その点、ご了承いただければと思う。


パレスティナ(「シリア」全域ではなく、敢えてパレスティナ地域のみについてのみ)を扱った書物を手に取るとき、私は幾つかの基準を設けて書籍の性格を見定め、その上で求めることにしている。その基準は下記の通り。

1、書名。つまり「イスラエル」ないしは「ユダヤ」を前面に押し出しているか否か
最初に見るポイントは、まあ当然だが書名。これを見た時点で、本の性格が7割方、確認出来る。「性格」とは何か、ということについては後述。
2、通史であるか否か
書名を見たら、次に目次をザッと眺めて構成を確認する。書名から確認出来ることでもあるのだが。「パレスティナ」を表題に掲げている場合、その記述はほぼ、近現代に記述が集中する、現代史の本である(『パレスティナ古代史』あるいは『パレスティナ中世史』と付してあるケースは除く・・・といいたいが、そのような著作は、邦語ではお目にかかったことがない)。
それに対して「イスラエル」を表題に掲げている場合、古代と近代・現代を無理に接続する傾向がある。そのために生じる弊害は、まず全体のバランスに現れる。古代と現代(敢えて「現代」というが、これはオスマン帝国が崩壊する、20世紀に入ってからのことを指す、と、敢えてここでは仮に定義させて頂く)史が極めて分厚いのに比して、中世史が恐ろしく薄い。理由は明白で、中世から近代に至る長い期間、宗教的な重要性はさておいて、パレスティナは際だった要地ではなく、シリア地方の一辺境としてあったからである。そして現代史の記述においては、イスラエルに都合の悪い記事はいっさい伏せるという傾向がある。これは、実は内容を見るまでもなく、次に挙げる点に注意すれば、すぐにうかがい知ることができる。
3、参考文献
目次をザッと眺めた後、今度は参考文献の一覧を見る。その中に、広河隆一・奈良本英佑・立山良司の三氏の仕事が並べて挙げられているか、さらに付け加えるならば、土井敏邦氏と板垣雄三氏の仕事が挙げられているか、という点にも注意を向けるべきであろう。これら諸氏の仕事を汲み上げているかどうかで、記述のスタイルが大きく変わってくる。ちなみに本書では、奈良本氏と立山氏の研究は挙がっているが、どこまで誠実にその成果を採用しているかは非常に疑わしい。その理由は後述。

実は、文献の性格は、この3つの作業でほぼ充分に確定されてしまう。すなわち、大きく分けて
イスラエル寄りか否か」
というスタンスが、この参考文献の確認までの作業を行うだけで明白になってしまうのである。
イスラエル寄り」であれば、古代ユダヤの歴史に多くの筆を費やし、ディアスポラ(「離散」)状態となってからの苦難の歴史への同情をあおり(でもこの時期は、当然ながら中東の歴史の脈絡の中にはないですわな)、そして現代においては、イスラエル国家の正当性を高らかにうたいあげる。その過程で不都合な、イスラエルによる幾多の国際法無視や虐殺行為はほぼ完全に黙殺する。
それに対して「イスラエル寄りではない立場」(敢えて「パレスティナ寄り」とは言いません。ニュアンスが違うから)をとる場合、その記述は専ら近現代に集中する。そこには、この「イスラエル」を取りまく問題が、中東史の脈絡から発生したものではなく、ヨーロッパにその端を発する、極めて近現代的なものであり、それまでの歴史の経過と蓄積からは分断された文脈の中にあるもの、とする問題意識があるからである。


こういったポイントを見極めるにあたり、参考文献の中に広河氏の仕事が上がっているかという点が、非常に重要である。レバノンベイルート難民キャンプでのパレスティナ人難民虐殺、および近年のジェニンでの虐殺など、イスラエルによる多くの暴力行為の目撃者であり、かつ報告者である広河氏の報告は、イスラエル寄りの立場を採る人間にとっては極めて不都合であり、無視することが多いのだ。
しかしこれはいうまでもなく、一次史料を無視するという、およそ研究者としては言語道断な姿勢を取っていることと同義といえる。すなわち、史料に対する誠実さを欠いている、と申して過言ではない。また、たとえ上記諸氏の研究を採用していても、その研究成果を積極的に取り込んでいるか、あるいは無視しているかということは、サッと一読するだけで明白になることである。
そして。
これらの検討の結果「イスラエル寄り」と判断された文献は、ほぼ例外なくイスラエルを無条件に礼賛するものとなり、結果、イスラエルプロパガンダの粗悪なコピーとなる運命にある。その過程で、「『反ユダヤ主義』と『反イスラエル主義』は、同一のものではなく、全く別のもの」「イスラエルの存在はユダヤ人にとって重荷でしかない」とする土井敏邦氏の主張は、都合良く無視されるのである。


上記の諸条件に照らせば、本書は「イスラエル寄り」の著作であり、その性格もまた、残念ながら他の「イスラエル寄り」の文献と、異なるものではない。
筆者は古代史の専門家というので古代史の記述が極めて厚い(古代史の部分に関しては、参考にできるものである。ただし、サッと見ただけですぐに気が付く穴もある。それは後述)。中世史に関して薄いのはさておくとしても、近現代の記述は、予想に違わず惨憺たるもの。本ブログでも以前取り上げた、奈良本氏の著作『パレスチナの歴史』ではオスロ合意を「勝者たるイスラエルと、敗者たるアラファート・PLOの間に結ばれた、降伏条約」と断言されていたのだが、その成果を活かした記述は、全く見当たらなかった。一応、参考文献の中には挙げられていたけれども。
「立場の相違を超えて『イスラエル史』の水先案内人となれば望外の幸せである』(362頁)
という「あとがき」での一言をみた時には、思わず苦笑を禁じ得なかった。そもそも、「立場の相違を超える」ことを目的とするならば、「イスラエル史」という表題はありえないし、「西欧中心史観とは異なる、アフロ・ユーラシアからの視点」(361頁)から記述が為されているとは到底思い得ない。
古代史の記述に関しても、私の専門に引きつけての批判になるが、例えばヘレニズム時代の記述に関して、当該時代の専門家として仕事をされている井上一氏や大戸千之氏の研究が一顧だになされていないのは、如何なる訳か。筆者が言うように日本人としての視点を大事にしたいのならば、これら諸氏の研究は、絶対に不可欠のものといえよう(なお、ヘレニズム時代について、日本人研究者の仕事は参考文献の中に上がっていない。本書の性格を考える上で、看過できない点である)。
だいたい、サイードも参考文献リストの中に挙がっていないって、どういうことなのよ・・・


イスラエル史」という名の通史は、やはり、あり得ない。これをタイトルとして置いた時、その研究は愚書となる命運にある。私が本書の感想として言えるのは、強いていえば、それだけである。
 さらに敢えていえば、中東は未だ帝国主義時代のグレート・ゲームによって滅茶苦茶にされた後遺症―オスマン帝国の解体の後、有効な解決策を見出し得ぬ状況を強いられているのだと、苦々しく思わざるを得なかった。
繰り返しになるが、本書を本ブログにおいて紹介するのは、私の本意からはほど遠い行為である。どうぞ、ご了承いただきたく思う。


そんなわけで、ここからが本当の「紹介したい書籍」です。奈良本さんの本は、以前紹介したから今回は省略させて頂きます。

パレスチナ新版 (岩波新書)

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アメリカのユダヤ人 (岩波新書)

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くっそ、写真出ない・・・まあ、古い本(1991年出版)だから仕方ないか。
歴史の現在と地域学―現代中東への視角

歴史の現在と地域学―現代中東への視角

これも出ないか・・・この本で板垣氏が述べているヴァイツゼッカー大統領の演説に対する批判は痛烈きわまりない。是非一読頂きたいものである。ヴァイツゼッカーの「良心」にのみ、ひたすらな称賛を寄せる人々にこそ、是非。